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りらいぶジャーナル

企業戦士のメモランダム

「モンッア・ミラノ」

■わが心の故郷イタリア -笠ひろし-
<7>

 英語、仏語、独語は勉強していたが、赴任地のイタリアは言葉を始め、初体験のことばかりで最初はかなりとまどいがあった。

「フィエラ・デ・ミラノ」

■わが心の故郷イタリア -笠ひろし-
<6>

 赴任してから半年経った。ホテル住まいから下宿生活が始まり、イタリアでの個人的な目標の一つだったイタリア語をマスターする入口に一歩近づいた。

「ファド」と「シャンソン」

■わが心の故郷イタリア -笠ひろし-
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 1968年12月、工場の責任者に同行してマドリッド経由でリスボン空港に降り立った。1543年、種子島に鉄砲を伝来させたポルトガルは、日本とは最も古い交流を持つ国である。その首都“リスボン”は憧れだった。

「エスプレッソ」と「カプチーノ」

■わが心の故郷イタリア -笠ひろし-
<4>
 ミラノの駐在員事務所は名ばかりで、代理店の一室で社長室を使うことになった。代理店の事務所は社長室、副社長室と経理、総務の部屋、応接室の4部屋、地下は商品を発送する倉庫でイタリア人8人の所帯だった。

フェリーチェ・アンノ・ヌオヴォ(新年おめでとう)

■わが心の故郷イタリア -笠ひろし-
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 世界各国の正月の過ごし方は風俗、習慣、文化の違いによって様々である。私が8年間過ごしたイタリアでは日本とは異なって宗教的な意味合いが強く、12月のクリスマスが国民にとっての楽しみな行事といえる。

トラットリア・ロキシー

■わが心の故郷イタリア -笠ひろし-
<2>
 イタリアへの出発は半年後の秋半ば。途中、ハンブルグとパリの現地法人に赴任挨拶のため立ち寄ったので、目的地のミラノ到着に4日もかかった。そのうえ、濃霧で便が大幅に遅れ、着いたのは深夜12時近かった。

ボナセラ、シニョール!

■わが心の故郷イタリア -笠ひろし-
<1>
 1968年10月、ミラノに赴任した。イタリアは大手電子機器メーカーとして市場と考えていなかった地域だった。しかし、当時人口5千万人を誇るイタリアは英、仏、独に引けをとらぬ大国であった。つまり、日本企業にとっては咽から手が出るほどのマーケットだった。