Skip navigation.
りらいぶジャーナル

「エスプレッソ」と「カプチーノ」

■わが心の故郷イタリア -笠ひろし-
<4>
 ミラノの駐在員事務所は名ばかりで、代理店の一室で社長室を使うことになった。代理店の事務所は社長室、副社長室と経理、総務の部屋、応接室の4部屋、地下は商品を発送する倉庫でイタリア人8人の所帯だった。初めて出社して所内を見渡すと、机の上には電話機以外何も置かれていないことに驚く。書類の山が普通の日本のオフィスとは大違いである。

 一段落すると、商品発送の責任者カルロが私をオフィスの隣にある「BAR(バール)」へ誘ってくれた。まだ昼前だというのに、大勢の人間が立ち飲みでカップを持ちながら談笑していた。イタリア人のコーヒー好きは耳にしていたが、一日に7、8杯は飲むと聞かされてさらに目を丸くした。なかでも小さなカップに入った「エスプレッソ」は彼らの活力である。今でこそ日本でも知られたコーヒーだが、なにしろ40年前のこと。また「カプチーノ」がエスプレッソに泡立てた牛乳を加えたもので日本ではまだ知られていなかった。ちなみにミラノでは「カプッチョ」と言い、朝だけ飲むのが普通で、現在、年中飲んでいる日本人を見るとイタリア人は何と言うか聞いてみたいと思う。ミラノ語は24もある方言の一つで、地方によっては発音やアクセントが異なり、イタリア人同士でも通じないことがあるという。エスプレッソに関していえば、砂糖を3杯ぐらい入れ、かき回さずに飲むと濃いコーヒーの味が程よくまろやかになる。イタリア人に言わせれば、この後の煙草が何とも言えないそうである。

ローマの休日。つかの間を楽しみ、バールでくつろぐ。技術研究所長と友人の父親と

 オフィスに戻ると、大阪本社から私あてに早速テレックスが入っていた。内容はポルトガルへ工場からの出張者に同行するようにとの要請である。同じ南欧だから近いと思われがちだが、当時、日本人は入国ビザが必要だった。出張まで十日の猶予しかなかったが、赴任早々の私はポルトガル領事館へビザ申請に行ったり同行者の宿の手配をしたりなど、のんびりしてる暇はなかった。当時の欧州では日本の家電製品は電気規格や電波障害などで現地販売は苦戦していたが、ポルトガルはブレンダーやミキサーなど2000台以上輸出していて、その市場調査と今後の商品企画が目的だった。以後、8年にも及ぶイタリア滞在中に、この国へは何度も足を運ぶことになったが、訪れる度に素晴しい魅力的な国であることを認識していったので、次回紹介させていただきます。

●バックナンバー
<3> フェリーチェ・アンノ・ヌオヴォ(新年おめでとう)
<2> トラットリア・ロキシー
<1> ボナセラ、シニョール!

【りゅうひろし】企業コンサルタント。エッセイスト。大手電器メーカーに入社し、1960~70年代の欧州市場開拓の先駆者となる。徹底した現場主義を貫き、イタリア中心にポルトガル、スペインの販路開拓と現地法人立ち上げの協力体制づくりには定評がある。