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りらいぶジャーナル

「ファド」と「シャンソン」

■わが心の故郷イタリア -笠ひろし-
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 1968年12月、工場の責任者に同行してマドリッド経由でリスボン空港に降り立った。1543年、種子島に鉄砲を伝来させたポルトガルは、日本とは最も古い交流を持つ国である。その首都“リスボン”は憧れだった。空港のパスポート・コントロールを抜けると、そこに現地代理店の会長であるアントニオ・ロッシヤが待っていた。彼の誘導で荷物も取らずに税関を素通りしたが、再会の喜びで荷物の受け取りを忘れていた。それを告げると「ドンマイ、ドンマイ」といって運転手に命じて取りに行かせ、私をベンツに案内した。

19世紀から市民の足となっているリスボンの市電。美しい街のシンボル

 リスボンは快晴で、気温はミラノより温暖だった。空気はさわやかで、どこまでも青い空が今でも印象に残っている。宿泊先の「ホテル・ティボリ」に着いたとき、同行者の荷物がないことに気づいた。仕方なく、彼は運転手と空港へ引き返したが、戻ってきたころにはすっかりこの国のファンになっていた。何しろ、彼の荷物は空港の車寄せにそのままの状態で置かれていたからである。

 夕食はレストラン「ソル・マール」で海産物を中心にしたディナーをとり、その後に総合商社の駐在員から「ボルトガルの心を勉強しませんか」と言われ、「ファイア」という店に誘われた。

 店内に入ると、ギターとバンドネオンが奏でる、これまで耳にしたことのない音楽が飛び込んできた。「ファド」だった。このとき、フランス語に心を奪われていた学生時代に観たダニエル・ジェランの「過去を持つ愛情」のなかで、リスボンの浜辺のシーンのバックに流れていた、アマリア・ロドリゲスが唄うファドの「暗い艀(はしけ)」を思い浮かべた。ファドはこの国の民族歌謡といわれている。題材は夫の帰りを待つ漁師の妻の想いや古き良きリスボンを唄いあげたものなどがある。また「コインブラ」の歌曲はフランスに渡り、シャンソン「ポルトガルの洗濯女」に変身している。

 「ファド」の酒場では歌姫たちが順番に得意の曲を唄い、その後は客席でウイスキーをがぶ飲みする。大声で唄い、そして痛飲するのは一日の疲れを吹き飛ばすものだった。

 このとき、歌姫たちに「ムイ-ト・オブリガード」(ありがとうございます)という言葉を教わった。考えてみれば、外来語にはポルトガル語が数多く残されている。カステラ、コンぺ-ト、パン、航海術に関係したコンパス、カンテラ、繊維関係ではビロード、ラシャ、カッパなどが有名だ。「ファド」と酒好きな歌姫がいる欧州最南端のポルトガルは郷愁を誘う素敵な国だった。

●バックナンバー
<4> 「エスプレッソ」と「カプチーノ」
<3> フェリーチェ・アンノ・ヌオヴォ(新年おめでとう)
<2> トラットリア・ロキシー
<1> ボナセラ、シニョール!

【りゅうひろし】企業コンサルタント。エッセイスト。大手電器メーカーに入社し、1960~70年代の欧州市場開拓の先駆者となる。徹底した現場主義を貫き、イタリア中心にポルトガル、スペインの販路開拓と現地法人立ち上げの協力体制づくりには定評がある。