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りらいぶジャーナル

ミニテニスで元気に

高齢者の健康づくりスポーツ、全国に根付く
考案者「アジア大会が夢」

 「アジアの競技連盟を作るのが夢」と語るのは東京都立川市の日本ミニテニス協会理事長・天野孝一さんだ。

 ミニテニスは1986年、市教育委員会のスポーツ振興係長だった天野さんが60歳以上の高齢者向けスポーツとして考案したもの。全国各地に協会が設置され、競技人口は全国に6万人、さらに毎年数千人規模で増えているという。8割は高齢者だが、地域によっては40代以下の競技者も増えており、都内には子ども向け教室もある。指導員や審判員の育成にも取り組んでいる。

 ミニテニスは直径13センチ、重さ30グラムの協会公認ボールを専用のラケットで打ち合う。ゲームのルールはダブルスで1ゲーム6ポイント制。3ゲーム行い、2ゲーム先取で勝ちとなる。瞬発力の優れた人だけが有利になってしまわないよう、ボールは必ずワンバウンドで打つことが特徴だ。ただ単純なラリーだけでなく、ボールに回転を加え変化球にして、相手が打ち崩したところをスマッシュするなどの技もある。

(写真=ラケットとボールを手にする天野孝一さん)

 そもそもは天野さんがミニテニスを考えるきっかけになったのは、行政として高齢者の健康づくりへの取り組みを検討したことだ。
「当時、地域の運動施設ではジャズダンスやエアロビクス、水泳が盛んで、若い主婦たちでいっぱいでした。ところが高齢者は運動したくてもなかなか体育館まで足を延ばす勇気がなかったのです。また高齢者のスポーツといえばゲートボールしかありませんでした。そこで高齢者に『スポーツの出前』をしようと、ミニテニスを考案したのです」

 当初は玩具として市販されているビニル製のビーチボールを手で打つという簡単なものだった。天野さんは丸太とベニヤ板を準備し、地域の児童公園に自前でコートを作った。そして自動車に拡声器を取り付け、「運動したい人、集まりましょう」と呼びかけながら市内を巡ったのだ。
 すると、瞬く間に高齢者が集まったという。また別の地区にコートを携えて車を繰り出すと、それまで集まってきた人たちも追いかけてくるようになった。

 しかし、この運動も継続しなければ意味を成さない。天野さんは市民が自発的に運動し、それを継続させ、そして普及していくことが重要だと考えた。そこで集まった人たちの自主グループづくりを支援して各地域を回ったのだ。こうしてミニテニスの輪が徐々に近隣自治体にも広がっていったのである。
 翌年には地面に転倒してけがをするのを防ぐため、競技場所を体育館に移した。そのときには柄の短いラケットでボールを打つという現在に近いスタイルとなった。

「バウンドテニスというスポーツがあるのですが、そのラケットを使いました。けれどもミニテニスのボールに対してラケットの面が小さく、アンバランスだったのです」


 そこで天野さんは都内を駆け回って手ごろな大きさのボールを見つけ出した。さらに競技者の一人が勤務先の会社社長に依頼してラケットの開発にも着手、またボールもビニル製で見やすいカラーに改め、独自に開発した。現在では4種類のラケットがつくられ、うち2種類は新作で「アマノスペシャル」(写真)と名付けられている。

 1990年には立川市ミニテニス協会が発足、その後マスコミ各社が天野さんの「スポーツの出前」に着目し、全国に知られるところとなった。市もミニテニス全国普及5カ年計画として事業予算化、全自治体に冊子を配布してPRしたため問い合わせが殺到したという。

 それから天野さんの全国行脚が始まった。当時天野さんは49歳、役職は体育課長となっていた。だが、スポーツはミニテニスだけではない。サッカーや空手など従来からあるスポーツ団体についても重要な職務対象だ。けれどもミニテニスが急速に全国に普及していったため、考案者としてもミニテニスに力を入れざるを得ない。天野さんは苦渋の選択に迫られ、結局市職員を51歳で退職、ミニテニス普及活動に専念することとした。

 その後は市会議員としてミニテニス普及を目論むが、日ごろの業務に終われて思うようにいかず、1期で議員を辞めた。そして有限会社ミニテニスショップアマノを立ち上げ、自らプロミニテニスプレーヤー第1号として普及と指導活動を行い、現在に至る。

「道具もそうですが、スタイルもルールもやりながら試行錯誤して改良を重ねていきました。また当初は60歳以上という制限がありましたが、だんだん対象年齢を引き下げていき、現在は16歳以上が楽しめるスポーツになっています」

 各地の協会持ち回りで毎年、全国大会も開催される。ゲームだけでなく、競技者同士の親睦を楽しみにしている選手も多いという。

 天野さんはいまアジア諸国への普及を考え始めた。「マレーシアやインドネシア。シンガポールなどアジア各国でも紹介し、スポーツ交流を図るのが夢です」。近い将来、アジア大会が実現されるかもしれない。
(2009.8.31)