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「骨盤おこし」で身体が目覚める 一日3分、驚異の「割り」メソッド
りらいぶジャーナル
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外国人クルーとともに■回想~フライトに捧げた40年 -石川真澄- 1966年、香港をベースとする中国人スチュワーデスが採用されました。彼女たちはスタイル抜群の体に森英恵さんデザインのスリットの入った真っ白な中国風のユニホームをまとっていました。そして中国語しか話せない乗客に重宝されていました。 その後84年にはサンパウロ、88年にはロンドン、フランクフルト、シンガポール、さらに台湾、上海、バンコク、マニラと路線拡張とともにベースも増え、外国人スチュワーデスが定着し、国籍を越えて私たちと一緒に仕事をするようになりました。男性客室乗務員も採用されるようになったいま、フライトアテンダントの3分の1は外国人です。 特にヨーロッパ人クルーの中には日本がどこにあるのかも知らない人が多く、日本に着くや否や成田にある狭い寮に入れられ、羽田の訓練所に通って日本語と機内サービス、緊急避難訓練に明け暮れます。社員食堂では食べたこともない食事を口にしなければなりません。訓練中は薄給なので外食もできず、白いご飯にマヨネーズとしょうゆをかけて食べている姿をよく見かけました。こうして多くのカルチャーショックを受けながら一人前のクルーに仕立て上げられていくのです。 普段の食事でも納豆ご飯が大好物になったヨーロッパ人もいました。またインスタントラーメンにタバスコとレモンの絞り汁をかけてトムヤンクン風に仕上げるなど、外国人クルーたちは限られた中で工夫することが得意になります。 バブル全盛期、私たちにも素敵な経験がありました。そのころヨーロッパステーションクルーというシステムがありました。ロンドン、パリ、コペンハーゲン、デュッセルドルフにクルーを配置し、3~4カ月交代で成田から飛んできた機材を最終目的地まで乗務するというものです。私は秋から冬にかけてのロンドンに行ったのですが、フライトのない日の朝は落ち葉のハイドパークをジョギングして語学学校に通い、夜は大好きなオペラやコンサート、ミュージカルを堪能し、天気のよい日には知らない町に出かけたこともありました。いまでは考えられないほど世の中すべてが潤っていた時代に仕事ができ、恵まれた環境にあったと思います。
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