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りらいぶジャーナル

ボナセラ、シニョール!

■わが心の故郷イタリア -笠ひろし-
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 1968年10月、ミラノに赴任した。イタリアは大手電子機器メーカーとして市場と考えていなかった地域だった。しかし、当時人口5千万人を誇るイタリアは英、仏、独に引けをとらぬ大国であった。つまり、日本企業にとっては咽から手が出るほどのマーケットだった。

 大手商社も駐在員事務所を開設し始めたころで、電子メーカーでは唯一、三洋電気がスイスの事務所を窓口に音響機器を輸出していた程度。ところが、1962年に三洋電気のイタリア代理店だったS社のモンティ社長が立ち寄った香港で樂声牌「National」ブランドを見て、輸出の窓口である大阪本社を訪ねてきたのである。

 初対面で応対した私が「ボナセラ、シニョール」とあいさつすると、イタリア人通訳は目を丸くした。むろん当時イタリア語は駄目だったが、家族がスペインで買ってきたレコードのタイトルに「ボナセラ、シニョリーナ」(こんばんは、お嬢さん)とあったのを使ったまでで、海外で予想外の母国語を耳にすると誰でも驚くものである。

 その出会いから、かの国との取り引きが始まった。取引量は順調に推移していたが、量が増えれば当然ながら事務所開設とスタッフが急務になる。白羽の矢が立ったのが私である。

 しかし、欧州担当課長から打診が来たときは英国、ウィーンと2回も候補になりながら決まらなかったこともあり、課長への返事はあえてしなかった。支店長から「南欧事務所の駐在員に指名された」と正式に告げられても疑心暗鬼で、家族にも伝えなかった。

 だが、本心を明かすと、イタリアに赴任したら「イタリア語をマスターする」「運転免許を取る」ことだけが脳裏をよぎっていた。いずれも翌年には達成したが、なにせ血気盛りの33歳。まともには相手にされないと思い、まずサービスの実態から調査した。

 南欧事務所のカバーするエリアはイタリア、ポルトガル、スペイン、マルタ、アンドラに加え、代理店の指名でオーストリアと、東京が担当していたキャナリー諸島も守備範囲になった。
 このなかで常時稼動していたのがイタリアとポルトガル。いずれも食事がうまく、美人の多い国だ。事務所がミラノにあったため、特にイタリアは私の拠点であった。
 もちろん、このときは後年「イタリア馬鹿」と揶揄されるほどこの国に魅せられるとは想像だにしなかった。

【りゅうひろし】企業コンサルタント。エッセイスト。大手電器メーカーに入社し、1960~70年代の欧州市場開拓の先駆者となる。徹底した現場主義を貫き、イタリア中心にポルトガル、スペインの販路開拓と現地法人立ち上げの協力体制づくりには定評がある。