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りらいぶジャーナル

トラットリア・ロキシー

■わが心の故郷イタリア -笠ひろし-
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 イタリアへの出発は半年後の秋半ば。途中、ハンブルグとパリの現地法人に赴任挨拶のため立ち寄ったので、目的地のミラノ到着に4日もかかった。そのうえ、濃霧で便が大幅に遅れ、着いたのは深夜12時近かった。

 「イタリアだ!」。市場開拓への夢を胸に秘めていたが、いざ彼の地を踏むと、この国で何ができるか、何をするのか。武者震いのような感情がこみ上げてきた。

1972年、旧東京銀行ミラノ支店のオープニングパーティーで。左は夫人

 空港には代理店から迎えが来るはずだったが、3時間以上遅れたため、到着客用の案内所に行くと、メモが残されていた。

 空港バスでミラノ中央駅近くのターミナルへ向かい、タクシーに乗ったが、英語が全然通じない。フランス語も役に立たない。メモを見せ、何とか予約先の「ホテル・ロキシー」にたどり着いた。

 覚悟はしていたが、フロントの老婆もイタリア語以外無理だった。名を告げると「キアーベ」と言って頑丈な鍵を渡された。部屋に入ると半日におよぶ緊張感がほぐれ、どっと疲れが出た。昼から何も口にしていない。

 時計を見ると1時を回っていた。日本は仕事が始まる時間である。ロビーに降りると、女性がテレビに見入っていたが、ジェスチャーで食べる真似をすると、外に連れ出され、4、5軒先のネオンの灯った「トラットリア・ロキシー」を指さした。

 ドアを開けると、人息れとけん騒でむせ返っている。我が目を疑う光景だったが、そのなかをウエイターと10代とおぼしき少女が「シニョレ」と言って、デカンタに赤ワインを持って席へ案内してくれた。「デジィデラ(ご注文は)?」と聞かれてメニューを見たが、手書きのため読めなかったので、「スペチャリタ(お勧めを)」と告げた。

 しばらくすると、オニオン・スープが運ばれてきた。後日、この場合はパスタを頼むのが普通で、フランス料理であるこのスープは富裕層や外国人が注文すると聞かされた。少女は小鉢に入れた粉チーズを一緒に持参した。

 その後は「スカローピーネ(肉のワイン焼き)」と続いた。空腹が満たされたこともあったが、本場で食べたイタリア料理に身も心も救われる思いがした。このとき「早くイタリア語をマスターして、こんな旨い料理を食べよう」と決心した。

 その後、イタリア滞在中この少女の接遇と笑顔にどれだけ癒されようとは、夢にも思わなかった。

●バックナンバー
<1> ボナセラ、シニョール!

【りゅうひろし】企業コンサルタント。エッセイスト。大手電器メーカーに入社し、1960~70年代の欧州市場開拓の先駆者となる。徹底した現場主義を貫き、イタリア中心にポルトガル、スペインの販路開拓と現地法人立ち上げの協力体制づくりには定評がある。