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りらいぶジャーナル

運命的な人生のレールに乗って

■回想~フライトに捧げた40年 -石川真澄-

 日本の海外旅行自由化は東京オリンピックが開催された1964年。これを機に誰でも旅券取得が可能になりましたが、大卒の初任給が平均2万円弱のときに、ハワイ旅行が現在の換算で300万円もした時代ですから、一般庶民にとって「海外」はまだ高嶺の花でした。しかし、2年後の66年に、そのハワイに親善大使として派遣されたことで、私の人生のレールが敷かれていったような気がします。17歳の夏に、ある出版社が募集した懸賞作文で、12万人の中から高校女子の部で当選してしまったのです。

 68年に日本航空にアテンダント(スチュワーデス)72期生として入社した動機を問われれば、このハワイ行きが引き金になったことはいうまでもありません。また、神戸出身の私の家系は、祖母と母がアメリカ生まれで父も海外生活が長かったことから、幼少の頃から"外国"が身近にありました。

1968年羽田空港の訓練所で。左から二人目が私

 入社した年は、霞ヶ関ビルの完成、3億円事件、東大紛争など激動の時代で、日本の空の玄関もまだ羽田空港でした。その羽田の木造2階建ての訓練所で、私たち新人アテンダントは機内サービスのほか、お客さまの安全を守る保安要員としてさまざまな状況を想定した厳しい訓練を受けました。男性乗務員の場合、自衛隊への体験入隊も実施されていたし、欧州では国家試験になっている国もあります。

 半年間の訓練後、待望の初フライトはホノルル経由のサンフランシスコ便でした。機体は「空の貴婦人」と呼ばれたダグラスDC-8。ファーストクラスのシートは西陣織、壁には加山又造氏の絵。アテンダントの制服も森英恵さんデザインのスカイブルーのツーピースで、それまでのイメージカラーの"紺"をかなぐり捨てて、デザインも着物をイメージした衿なし、本真珠でコラージュした鶴丸のブローチにお椀を逆さにしたような帽子と、日本が高度経済成長を遂げる前であっただけに、この制服のきらびやかさは当時大きな話題を集めたものでした。

初フライトでハワイに寄ったとき、2年前の親善派遣で親交を深めた方々と再会し、40年を経た現在でも家族同様の交流が続いています。40年という時代の流れは様々な現象を一変させていますが、私がこの間に築いた海外との交流の絆は変わりません。

【いしかわますみ】海外ライフ・コンサルタント。1968年日本航空に入社後、アテンダント(スチュワ-デス)、アシスタントパーサー、パーサーを経て、90年からチーフパーサーとして後進の指導・育成に当たり、2009年退社。40年間のフライト乗務時間は地球560周分に相当。R&I会員の横顔「日航40年のキャリアでシニア支援活動も」