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りらいぶジャーナル

『シャムの日本人写真師』

松本逸也著(めこん・1992年12月初版刊行)
1890円


 今からおよそ100年も前、タイがまだシャムと呼ばれていたころ、この国に生きた2人の日本人写真師がいた。磯長海州と田中盛之助。いずれも薩摩という呼名が色濃い時代の鹿児島の出身である。この2人に加えて田中の娘婿、波多野秀とその兄、章三。もう忘れ去られた時代、バンコクにチェンマイに、この国に生きた日本人たちがいる。いずれも遠い日にシャムに渡った男たちだ。なぜ彼らは海を越えて行ったのか。なぜシャムであったのか。そこで彼らはどう生きたのか――。

 バンコクに残る古い1枚の写真から物語は始まる。海を渡った男たちと彼らを取り巻く女性や子どもたちを縦軸に、日本がまだ貧しかった明治から大正、昭和へ至る激動の時代背景を横軸に、著者は消えかけていた人々の実像をバンコクに、チェンマイに、鹿児島に、横須賀に、さらに群馬県新町へと追い続け、そのかすかな足跡をたどってゆく。本書は1987年3月から実に5年半の歳月を費やして記された著者渾身のフォト・ドキュメンタリーである。

 古い写真の数々と丹念な取材は激動の時代を鮮やかに照射し、次第に一人ひとりの実像と人間模様を浮かび上がらせる。本書は1992年12月に刊行され、世に出てすでに15年以上が経過しているが、その新鮮さは変わることなく、まるで良質なサスペンスを読むようだ。

 ここに描かれる史実の数々は今日ではもはや歴史の流れの中に埋もれようとしている。著者は「『古い写真』の発掘は考古学のそれに実によく似ている」と語る。まさに1世紀も前、それも無名に近い人々の実像に迫るのは容易なことではあるまい。全編を彩る古い写真の数々とともに、日タイ史の一面を知る上での貴重なフォト・ドキュメンタリーとして一読をお薦めしたい傑作である。


小田俊明のアジア通読本バックナンバー

【小田俊明】旅行作家。大手エンジニアリング会社に在職中、中東を中心に世界各地の大型プラント建設プロジェクトを歴任。早期退職後、2002年より執筆活動に入る。タイでは同国政府観光庁他の要請により、日本人にまだ知られていないタイ各地を巡り、その魅力を現地バンコクの情報誌等を通じて紹介。中高年層にも向く新しい切り口の紀行エッセイとして『ウィエン・ラコール・ホテルの日々』(文芸社)にまとめる。本ウェブにコラム「まだ見ぬ癒しのタイランドへ」連載中。