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りらいぶジャーナル

上海・2009

~ Broken Promises in Shanghai ~

>> 「まだ見ぬ癒しのタイランドへ」では、これまで知られざるタイ各地をご紹介してきましたが、今月は特別記事として建国60周年に湧く中国に飛んでみましょう。一冊の本から蘇る古い記憶と懐かしい音楽。中国特集の第一回は国際経済都市・上海です。(中国特集は以後随時掲載予定)<<

 足早に逃げる人影。それを追う銃剣をかざした一隊の靴音。深夜の街角に乾いた銃声が響く……。終戦の年、1945年夏から翌1946年にかけ、魔都と呼ばれた上海は秩序維持という大義名分のもと、軍指令部、憲兵、さらに警備当局や国民党機関が入り乱れ、厳戒体制が続いていた。それぞれの指揮系統が幾重にも張り巡らされた恐怖状態の中、息をひそめて暮らしていた人々の生活もまた長い戦乱の日々に疲弊が極まり、明日への夢や希望も無い混沌とした時の流れの中にあった。

 人はある短い期間滞在した見知らぬ土地での体験が、その後の生涯に多大な影響を与えることがある。
 紀行文学の傑作とされる『上海にて』は若き日の作家・堀田善衛が1945年3月から翌46年12月までの1年9か月を過ごした中国・上海で見たもの、聞いたもの、感じたものを11年後の57年、上海再訪の際に回想という形で綴った作品である。著者はこの1年9か月の上海滞在を自らの運命とまで語っている。初版は59年に筑摩書房より刊行され、その後ちくま学芸文庫にも加えられたが、2008年秋、集英社文庫にて再刊され、私たちにより身近な書物となった。

 時は終戦間際から戦後間もない上海である。中国共産党軍による上海解放は1959年、日中の国交が回復したのはさらに13年を経た72年のことだ。今年、中国は建国60周年、改革開放後も30年という節目の年を迎えたが、当時の上海はいまだ国民党支配が続き魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)する不穏な状況下にあった。そうした時代背景の中、作家の視線は中国人民の過去、今、そして未来を見つめてゆく。

 近くて遠いこの巨大な隣人と日本との根本的な思想の違いは何か。18年という長きに渡って続いた戦乱の日々、中国人民は何を思いどう生きたか。本書は初版刊行後、半世紀という長い年月が流れてはいるが、上海のみならず中国という国家・人民を通じて日本と日本人が鮮やかに照射されている。
 一部に難解な思想的・哲学的表現があるものの、読み返す度に思索は思索を呼び、まさに日中現代史の原点を見る思いである。

 かつて文化大革命から十数年を経た冬の上海を歩いたことがある。当時、鄧小平は毛沢東時代の絶対平等主義による疲弊した経済を立て直すため、改革開放政策によって市場経済体制への移行を模索、新たな中国が胎動していた。

 上海の街はまだ暗く、冷たい氷雨が降っていた。そんな中でも南京路には軽快なジャズのメロディが流れ、それが突如トランペット・ソロに代わるや、懐かしい名曲“Broken Promises”(日本では「黒い傷跡のブルース」として知られる)が流れ始めた。
 繁華街から裏町を通って蘇州河の小路へ、高く、低く、美しい旋律が追いかけてくる。以後、私にとって上海という街の記憶はこの名曲の調べとともにある。
♪ Broken Promises ♪
(「Broken Promises」を再生します)


 改革開放以降、中国経済は大きく様変わりし、特に上海とその沿海部は激変した。2007年の数値では、1990年に比較して輸出入の総額が38倍を超える2829.73億ドルにも膨れ上がり、長江河口の東南に浮かぶ島には巨大コンテナ港が出現、この羊山深水港も一部が竣工するに至り、取扱高で上海がシンガポールを抜き世界一に躍り出るのも遠い日のことではあるまい。


 さらに諸外国からの投資はなんと44.74倍にあたる79.2億ドル、一世帯当りの年間可処分所得も11倍に迫る2万3623元に達し、多くの富裕層を生むに至った。
 外灘の古い建物群に租界時代の面影を残すものの、黄浦江の対岸、世界の金融センターを目指す浦東・陸家嘴に立ち並ぶ近代的高層ビルの数々はまるで近未来都市の様相だ。市内には20階以上の高層ビルがすでに3000棟を超えたとされ、日本人の数も増加の一途をたどっている。上海日本人学校の生徒数は世界金融危機によりバンコクに抜き返されはしたものの世界第2位(09年春現在)である。


 外灘から見る古びたブロードウェイ・マンション(上海大廈)は内部を一新、高級ホテルとして生まれ変わり、蘇州河に架かるガーデン・ブリッジも昔の姿のまま架け替えられた。終戦当時の上海競馬場は、博物館や美術館が配された緑豊かな人民公園・広場となり、南京路や豫園市場、新天地の華やかな賑わいと眩いばかりのイルミネーションの洪水はどうだろう。

 世界最高速のリニアー・モーターカーは浦東国際空港と市内を結んで営業運転を始め、張り巡らされた地下鉄網では新型車両が轟音とともに走り去る。東方明珠塔や浦東高層ビル街の煌びやかな夜景。道行く人々も「着倒れの上海」といわれるほど垢抜け、これがあの上海なのかと思うほどだ。


 一方でいまなお、多倫路文化名人街の一角や和平飯店のある南京東路から広東路にかけて歴史的建造物の並ぶ四川東路など、街のあちこちで租界時代の面影を垣間見ることができる。

 また雨が降り始めた。暮れなずむ外灘に鈍(にび)色の雨が降る。黄浦江を行く貨物船、対岸の浦東も雨に煙っている。渡し場では今日一日の仕事を終えた大勢の人々が対岸へと渡るフェリーに吸い込まれ、その背後には霧笛を鳴らす貨物船がゆっくりと黄浦江を上ってゆく。変らぬ港町・上海の風景だ。
 どこからともなく“Broken Promises”が流れ始めた。外灘に、黄浦江に、南京路に、上海の街に、過去と現在を結んで、高らかにトランペットの調べが流れてゆく。


 文化大革命の時代には都市の青年を強制的に農村に移住させる「下放政策」によって、上海からは60万人もの人々が下放された。今日、中国都市部の成長は地方からの農民工によって支えられているが、もうその時代さえ知らぬ若い世代が主流となった。来年の上海万博を控えてのことであろうが、上海はいうに及ばず、蘇州、無錫、杭州などの江南各都市では昼夜を問わず大型クレーンや重機が唸りを上げ、街のあちこちには瓦礫の山。こうした工事現場を見ない街はなかった。

 中国政府は今年3月の全国人民代表大会において公共投資や内需拡大政策による8%の経済成長を掲げたが、世界経済が大不況に転じた今、GDP成長率は落込み、職を求める農民工は1100万人に達したといわれる。低い個人消費に上向きの兆しはあるものの、中国は依然として失業問題や環境問題といった難問を抱えたままである。


 『上海にて』の後半、「惨勝・解放・基本建設」において著者は「自然資源の中国人民への解放は、教育、特に科学教育の復旧と相俟って、これは、おそらく、近い将来において巨大な意味を持つようになるであろう。それは遠からぬ未来において、世界の経済バランスを一変させるほどのものになるかもしれない」「……この調子で三十年たったなら、この地大博、人また多いこの国は“アメリカ”になりはしないか」と記している。

 文化大革命、改革開放による市場経済への移行など紆余曲折を経て60年、当時人口750万の上海はこの3月で1888万の大都会に変貌、中国一の国際経済都市となった。外貨準備高は既に2兆ドルを超え世界一、GDPも数年後には日本を追い抜き世界第2位の経済大国となる。古いものはどんどん取り壊し、新たな開発を進める建設ラッシュが凄まじい勢いで上海や江南各地を席捲している。この光景はまさに中国の今を見せつけられる思いであった。


※参考 『上海にて』堀田善衛著(集英社文庫)571円 + 税(2008年10月25日第1刷)
※先月に引き続いて今回もバンコクにて発行の日本語情報誌「Web」2009年10月1日号掲載の「アジア浪漫街道」と同時リリースです。

【写真・文】小田俊明  旅行作家。大手エンジニアリング会社に在職中、中東を中心に世界各地の大型プラント建設プロジェクトを歴任。早期退職後、2002年より執筆活動に入る。タイでは同国政府観光庁他の要請により、日本人にまだ知られていないタイ各地を巡り、その魅力を現地バンコクの情報誌等を通じて紹介。中高年層にも向く新しい切り口の紀行エッセイとして『ウィエン・ラコール・ホテルの日々』(文芸社)にまとめる。本ウェブに小田俊明のアジア通読本も連載中。

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