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りらいぶジャーナル

トゥーン、そして リー

~ 梅棹忠夫『東南アジア紀行』より ~

>>1957年(昭和32年)から翌58年、梅棹忠夫氏を隊長とする大阪市立大学の学術調査隊は戦後初めてタイ、カンボジア、ベトナム、ラオスの各国を踏破、その体験記は『東南アジア紀行』として世に出るや版を重ね、今日もなお貴重な記録として多くの人々に読み次がれている。<<



 雨は小止みなく降り続いている。大地から湧き上がっては流れ去る霧。深いチークの森を抜けると、道は九十九折の険しい上り坂となって延々と続いて行く。激しい雨にせわしなく動くワイパー。ヘッドライトが照らしているはずの前方視界がまるで利かない。幅の狭い山道は舗装されてはいるものの、対向車があると都度減速を強いられる。


 ランパーン県南部のトゥーンからランプーン県のリーへ至る国道106号線は険しい峠道が続く。この間わずか50キロほどの距離。「1時間半はみておいたほうが良い……」との忠告が良く理解できた。眼下の貯水湖の彼方、雲の切れ間から遠く陽射しを受けたトゥーンの町と背後に連なる山々が見える。つい先ほど、町はまばゆい陽光の中にあった。


 今から半世紀ほど前、首都バンコクから北部のチェンマイへと至る道はナコーン・サワンからタークを経て、このトゥーンから現在の国道106号線に入り、リーからランプーンを抜けて行く道路が完成したばかりであった。現在のランパーンから続く国道11号線がまだなかった時代である。

 1957年(昭和32年)から翌58年、梅棹忠夫氏を隊長とする大阪市立大学の学術調査隊は戦後初めてタイ、カンボジア、ベトナム、ラオスの各国を踏破、その体験記は『東南アジア紀行』として世に出るや版を重ね、今日もなお貴重な記録として多くの人々に読み次がれている。
 梅棹博士はかの司馬遼太郎氏に「大いなる知性」と言わしめた民族学の権威にして我が国を代表する文化人類学者である。博士の目線は優しく、往時の人々の生活と風俗、文化と歴史を深い洞察力に裏打ちされた平易な文章で綴った『東南アジア紀行』の普遍性は半世紀が過ぎた今日も変わることがない。


 本書の中で梅棹隊がチェンマイへ赴く途上、トゥーンとリーを描いた次のような一節がある。

(以下、原文のまま引用)
 『トゥーンの町は、街道から橋を渡って対岸にあった。それは、旧街道にそうて発達した、小ぢんまりした街道町だった。対岸に新街道が出来て、車はみんなそっちを通るようになったのだ。わたしたちももし、ここで泊まろうという気をおこさなければ、こんなところに、こんな美しい町がひっそりとかくれていようとは、想像もしなかったにちがいない。それほど、トゥーンの町は小ぎれいで、落ち着きがあった。タークよりもはるかに小さいが、もっときちんとしている。しっかりした木造二階建てが、道の両側にきっちりと立ちならんでいた。日本でいえば、木曽路か甲州路のどこかの宿場にでもありそうなたたずまいである。


 にぎやかではないけれど、店もたくさんならんでいた。店の床は板ばりで、きれいにみがかれていた。お客は店さきでくつをぬいで、上がりこんで買物をするのだった。店には、りっぱな家具があった。応接間のように、どっしりしたいすと机をならべている。服地屋の店では、若い娘がしずかにミシンをふんでいた。すべてが、清潔できちんとしていた。わたしはそこに、タイの古き、良き時代の生活を見たように思った。もしこの町が、古いタイのいなか町の典型であるとすれば、わたしたちは、こういう町をつくり得たタイという国の過去を、そうとう高く評価しなければならないのではないだろうか。


 わたしは、旧街道を町はずれまで行って見た。町はずれに火葬場があって、旧街道はそこから先きは、すでに河岸にくずれおちて、自動車を通さなかった。もはや、古き、よき時代の道をたどる人はないのである。新しい時代のガサガサしたふんい気は、トラックとともに、対岸の乾いた雨緑林のなかを、まっ赤なラテライトの砂ぼこりをあげながらまっしぐらに走りぬけて行ってしまうのである。ここに、ひっそりと美しい、古きよき時代の町があることも知らずに。』


 トゥーンは国道1号線をタークから北へ100キロ、ランパーンからだと南へ90キロほどの距離にあり、町は国道1号線からやや外れた地点にある。
 半世紀という歳月はトゥーンという小さな町のすべてを変えてしまったのであろうか、今日ではもう梅棹博士が見た面影は町のどこを探しても見当たらない。道路脇には銀行の建物や小ぎれいな商店が並ぶタイのどこにでもあるような田舎町である。

 名刹と言われるワット・ウィエンやワット・ウムロンの境内を歩いても特別な感慨が湧くわけでもない。しかし、何ということだろう、目線を変えてみると、緩やかに流れるワン川、青い山々と抜けるような大空、湧き上がる白雲、町を囲む自然は、文章の行間から読み取れるあの頃のトゥーンそのものだ。

 ワット・ウムロンの境内を見て回り、振り返ったその刹那、そこに広がる光景に胸を打たれた(タイトル写真参照)。穏やかな緑の田園風景。薫風に揺れる木々。町には陽光が燦々と降り注いでいるのに、背後の山々には雷雲が立ち込め、山の端には時折白い稲妻が走っている。黒雲の切れ間にのぞく青空と白い雲。いつかどこかで見たような、懐かしくも美しい光景だ。木曽路か甲州路、いや、かつて日本のどこにでもあった宿場町をこの風景に当てはめれば、それはまさしく日本の田舎そのものではないか。


 時は流れ、町も人も変わったのであろう。現在のトゥーンではOTOP(一村一品運動)の一環として“Ruen Keaw Stone”と呼ばれるこの地区特産の石を使った宝飾加工が盛んである。しかし、今日もなお、トゥーンには梅棹博士が見たものがひそやかに、けれど確かに息づいている。


 『峠をこえて、リーの村に達した。ごく小さい村だった。営林局の詰所があって、若い森林官が駐在していた。川村は、きのうからもう実質的な仕事に入っている。サルの分布の聞きこみをはじめているのである。タークの営林署では、テナガザルがいた。わずか100バーツ(1800円)で売るという。安いので、帰りに買うことにした。リーの山にも、テナガザルはすでにめずらしくないという。
 
 リーは、山の中のたわみにあった。もう一つ峠をこえると、しだいに平原になった。山が遠のき、たんぼがひろがりはじめた。そして、美しく整った村々があらわれてきた。わたしたちは、すでに北タイの盆地に入ったのである。』


 梅棹隊がこの峠道をたどった時代、トゥーンからリーまでは3時間を要したという。
 分水嶺を越えると、道はやや広がり一気にリーの町まで下って行く。いつの間にか雨は小降りとなり、薄日も射してきた。
 リーの町に入る直前にワット・プラタート・ハー・チェディという寺院がある。国道から長いアプローチを行ったその先に、五つの仏塔を持った静かな古寺が佇む。ひと気のない雨上がりの境内。こんな田舎町にこれほどの寺があるのも驚きである。


 「ごく小さい村」、リーも半世紀という時の流れの中で、今では典型的なタイの田舎町となっている。山々に囲まれた小さな町はちょうど下校時間。町の中心にある学校前では多くの子どもたちが郊外の村々に帰るスクール・バスを待っている。ここでもまたソーセージや駄菓子を売る屋台が立ち、田舎町の下校時間独特の賑やかな光景が広がる。屈託のない子どもたちの笑顔に囲まれていると時が経つのを忘れてしまう。


 子どもたちを乗せた大方のソンテウが走り去ると、町はまた静寂に包み込まれる。梅棹隊がたどった道はこの先、道幅はさして広くないものの快適な高原道路が続き、現在の国道106号線は綿織物で有名なパサンを抜けランプーンからチェンマイへと至る。

『東南アジア紀行(上)・(下)』梅棹忠夫著(中公文庫)各667円+税

※本稿はバンコクにて発行されている日本語情報誌「Web」 2007年8月16日号掲載の記事に加筆・修正したものです。

【写真・文】小田俊明  旅行作家。大手エンジニアリング会社に在職中、中東を中心に世界各地の大型プラント建設プロジェクトを歴任。早期退職後、2002年より執筆活動に入る。タイでは同国政府観光庁他の要請により、日本人にまだ知られていないタイ各地を巡り、その魅力を現地バンコクの情報誌等を通じて紹介。中高年層にも向く新しい切り口の紀行エッセイとして『ウィエン・ラコール・ホテルの日々』(文芸社)にまとめる。本ウェブに小田俊明のアジア通読本も連載中。

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