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読んでみた本
「骨盤おこし」で身体が目覚める 一日3分、驚異の「割り」メソッド
りらいぶジャーナル
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世代交代の狭間の中で■回想~フライトに捧げた40年 -石川真澄- 「よど号事件」に始まった1970年は大量輸送時代の幕開け。B-747型機、通称”ジャンボジェット機”がデビュー。120人乗りで6名のアテンダントでやっと仕事にも慣れたのに、いきなり360人乗りで20名のキャビンクルーに。機体の大きさだけでも圧倒され、機内設備もサービスも一新。より日本を強調するインテリア、機内食、着物サービス等々のほか、就航を機に制服が大胆なミニワンピースになったのをご記憶でしょうか。それまで窓側の座席から埋まっていたのに、通路側に人気が集中。お行儀の悪いお客様に泣きそうになったこともありました。パーサー職も女性にも開放され、男女格差が撤廃されたのもこの年でした。 撤廃といえば、今は懐かしい着物サービスにも逸話が残されています。ジャンボ機が導入されるまでは銀座の老舗の呉服屋で選んだ夏冬用が一式ずつ支給されていました。着用のタイミングは路線別に指示され、滞在先ホテルから着用の場合は最初の食事サービスが終わるまで、また2食目前に着替えたクルーは通関を含めて到着地ホテルまでといった具合でしたが、今のようにキャスター付きの鞄もなかった時代ですから、この役目が回ってきたときは荷物だけでもひと苦労でした。 では着物はどこで着替えるのか。もう暴露してもいいでしょう。答えはトイレです。帯だけは付け帯でしたが、上半身がやっと見える狭い空間で大和撫子に変身していたのです。着物は長くJALのイメージとしてお客様の目を楽しませていましたが、着用している当人は機内サービスだけでも重労働なのに、優雅な素振りを見せなければなりませんでした。しかし、このサービスも保安要員としての安全面を問われ、時代とともに姿を消しました。 60年にJAL初のジェット機DC-8型機に登場し、以後シンボルマークであった”鶴丸”は、ジャンボ機時代は白地の尾翼に赤で大きく描かれ、世界の空港で海外赴任や永住している方々が母国の匂いを感じるために、わざわざ機体を見に来られることも珍しくありませんでした。私自身も異国の地で見る職場にジーンと来ることもありました。さまざまな人生のドラマを乗せた鶴丸マークは2008年に半世紀の歴史を閉じましたが、偶然でしょうが、それは私が職場を去った年でもありました。 ●バックナンバー
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