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「骨盤おこし」で身体が目覚める 一日3分、驚異の「割り」メソッド
りらいぶジャーナル
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よど号事件から学んだ教訓■回想~フライトに捧げた40年 -石川真澄- キャビンクルーとしての生活は1か月に10日間の日本での休日以外は海外で過ごすというパターン。東南アジア線以外はほとんどが夜の出発で徹夜乗務でした。労働基準法では女性の深夜勤務は規制を受けていましたが、私たちの場合は特殊労働として認可されていました。とはいっても仕事は厳しく、当然のことながら新米の私は先輩方の速度についていけず、上下関係や人との関わりの難しさに悩んだ時期でした。しかし、この経験は後年指導する立場になってから大いに役立ったものです。 時差や疲労と闘いながら何とかアテンダントとしてやっていける自信がつき始めた2年目の春、その事件は起こりました。1970年3月31日の早朝、羽田発福岡行きの1番便、ボーイング727型機「よど号」がハイジャックされたのです。 727型機は当時の国内線の主力機で、保有機体には日本の河川の名が付けられていました。事件の経緯は割愛しますが、私はたまたまオフで自宅のテレビで一報を知りました。「ハイジャック?」「赤軍?」――航空機乗っ取りなど当時海外から時折飛び込んでくるニュースで知る程度で、私にとってまさに青天の霹靂(へきれき)でした。このころは国内線勤務もありましたから、まず乗客の方々、そして同僚のクルーたちの安否を考えると、いても立ってもいられない気持ちでした。もちろん社内は騒然としていました。今だから言えますが、この当時私はこの日本でハイジャックが起こるなど夢にも思わなかったのです。 しかしその後、不幸にも私たちは何度か大きなハイジャック事件を経験することになりました。ただし、現在ではしっかりとした対応マニュアルが確立されています。また、余談ですが、「よど号」の故石田機長とはフライトで乗り合わせたこともありました。口数は少ないですが、気のいいお父さんという感じの方でした。その後の人生はマスコミに翻弄(ほんろう)され、無念だったと思いますが、勇敢に対処した機長の姿は忘れることはできません。 クルーといえば、同機の江崎副操縦士は立派な機長に、相原航空機関士も安全運航を全うし、退職されました。また、乗客の一人で現聖路加国際病院名誉院長で97歳の今日までご活躍されている日野原重明氏は福岡で解放された病人の選定で犯人側と接衝したことも後に知りました。 ●バックナンバー
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