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りらいぶジャーナル

「フィエラ・デ・ミラノ」

■わが心の故郷イタリア -笠ひろし-
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 赴任してから半年経った。ホテル住まいから下宿生活が始まり、イタリアでの個人的な目標の一つだったイタリア語をマスターする入口に一歩近づいた。下宿先のロッシーニ宅は地下鉄(MM)ワニュエル駅から5分ぐらい。部屋は2階で、夫妻と19歳のお嬢さんに祖母の4人家族。しかし会話を交わすのは夫人だけで、他の家族は時折洗面所で顔を合わす程度だった。また、朝の洗面所は何とか調整できたが、困ったのは風呂。タイミングを見計らいつつも調整できぬ日も多かった。そんなときは家族がまだ赴任していない駐在員にお願いして、もらい湯をすることもあった。日本のような銭湯があったらなあと常々思ったものだった。

 駐在員の仕事のなかには、見本市のプロデュースという役割もある。電子機器のそれはミラノで毎年4月25日から始まる。イタリアと6年間も取り引きしていたが、我が社の代理店がどんな準備をして参加していたかは不明だった。特に欧州の見本市は以後1年の取り引きを左右する重要な行事である。企業の総合技術力を他社に先駆けて紹介し、新製品の導入や市場の拡大を図るための最善の努力をしなければならなかった。参加するためには、効果的な展示レイアウトに始まり、商品カタログ、期間中の対応メンバーと現地側での打ち合わせと同時に、製造者がイタリア独自の商品企画に役立てるような出張者の受け入れを準備しなければならなかった。

 この期間はミラノ市内のホテルは満杯になり、普段の倍以上の料金を覚悟するか、1時間以上かかる郊外に宿泊するしか術はなかった。ちなみに一番気を遣ったのは、同じ日にミラノに到着した役員の2つのグループが仲が悪かった場合のアテンドだった。ホテルはもちろん別。レストランの食事も別。現地の人間との会食も別。何から何まで分けて手配や動員しなければならなかったのは、後々、異業種の方々のお手伝いの際に非常に役に立った。とにかく好印象を持っていただき、イタリアのファンになってもらうことを心がけていたからである。

 余談だが、ミラノ見本市とスカラ座のオペラとは関係がある。有名なオペラは12月7日が初日で、この街の守護神サンタンブロージョの祝日と決まっているが、上演は見本市が終わる4月25日ごろまでとなっていた。オペラは今でも続いているが、見本市の話題はとんと耳にしないので、どなたかご存じの方がいればワインでも飲みながらお聞かせ願いたいものです。

●バックナンバー
<5> 「ファド」と「シャンソン」
<4> 「エスプレッソ」と「カプチーノ」
<3> フェリーチェ・アンノ・ヌオヴォ(新年おめでとう)
<2> トラットリア・ロキシー
<1> ボナセラ、シニョール!

【りゅうひろし】企業コンサルタント。エッセイスト。大手電器メーカーに入社し、1960~70年代の欧州市場開拓の先駆者となる。徹底した現場主義を貫き、イタリア中心にポルトガル、スペインの販路開拓と現地法人立ち上げの協力体制づくりには定評がある。