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りらいぶジャーナル

日本語教育に必要な専門性

シニアこそ得意分野を持て
●中田秀光さん

 「人生の折り返しは自分で決めなくてはいけない」――。生命保険会社に勤めていた中田秀光さん(65歳)は50歳のとき、そう確信した。これまで大学進学も就職も自分の意思で決めたことではなかったと自分を振り返る。周りを見ても、退職後も会社の仲間とゴルフや麻雀、飲み会に興じる先輩の姿に「何かが違う」と感じていたという。

 さらに、同年代でシンガーソングライターの小椋佳氏が50代で東京大学に学士進学したことに影響を受けた。「助走もしないで60歳から走り始めても遅い。でも、これから10年あれば何かできるのではないか」と、後半の人生設計に取り組んだ。何ができるのかを模索しているとき、新聞や雑誌で日本語教師の存在を知った。「ふと、自分自身も会社の研修で後輩に教えるということが得意だし、好きだと思い当たったんですね。それに海外にも関心がありました」

 会社の海外部門に所属したことがきっかけで英検にも挑戦していた。また子どもの学校に赴任していた外国人の英語教師を下宿させたり、逆に子どもが現地で教師の家にホームステイしたりと異文化交流にも積極的だった。そこで、日本語教師になるための情報を集め、NHKの日本語教師養成セミナーを受けることにした。

 ところが2、3か月後、だんだん物足りなくなってきたという。「受講生のほとんどはキャリアを積んだ日本語教師だったんです。素人の私はどう逆立ちしても適いません。これは差別化しなければ自分が埋没すると思いました」。中田さんはさらにブラッシュアップを図ろうと、大学院進学を決意する。

 それからは会社勤めをしながら日本語教師養成講座、さらに土・日曜は大学院進学のための予備校通いが始まった。そして58歳で東京学芸大学大学院教育学研究科に入学したのだ。

 以後、家族から離れ、大学の寮に生活の場を移した。フレックスタイム制を利用して早期出社し、仕事を終えると大学院に直行する。さらに日本語教育学会の研究コースに学び、日本語学校での講師も務めた。自宅に帰るのは週1回だけだ。

 院生は日本人や留学生も含めて多種多様、中田さんは年齢が上だけに、留学生たちの相談に乗ったりトラブルを解決したりと、必然的に「お父さん」役となったという。「さまざまな文化やものの考え方に触れることができて、しかも院生というみな同じ立場であらゆる経験ができ、勉強になりました」

 修士論文には、実際のビジネス現場においてどんな言葉が使われているか実態調査を行い、「ビジネス・コミュニケーションに求められる日本語能力の基礎調査」としてまとめた。そして2004年4月に修了、2か月後にはJICA日系社会シニア・ボランティアとしてブラジルに渡ることになる。

 ブラジルでの任務は日本語教師アドバイザーとして現地の日本語教師を養成することだった。2年間にわたってブラジル全土の拠点を巡回し、養成講座の立ち上げや教材作りに奔走した。「ただ、指導した日系ブラジル人たちは、顔立ちは日本人に似ていても中身はブラジル人。ついつい日本的感覚が出てしまって肩を怒らせることもありました」と苦笑する。

 帰国後、今度は中国の大連交通大学の日本語教師として赴任した。18~20歳代の若い学生たちのなかには将来、日本企業への就職をめざしている人もいる。「特にあいさつを厳しく教えました。過度な要求をして理想に走り過ぎてしまった感もありますが、学生たちは私を仲間として受け入れてくれました」。中田さんは「海外へ行くと、毎日が発見だ」という。

 このような経験と修士論文をまとめた経緯から、中田さんは日本語教育における専門性の必要を説いている。「ビジネス、IT、介護などそれぞれの専門分野での日本語が必要です。こうした専門性を発揮することが特にシニアに求められるのではないでしょうか」。学習者が何を求めているのか、一段と掘り下げて対応しなければならないと中田さんは主張する。中田さんの場合はビジネス、そして日本伝統文化だ。自身も能面師に弟子入りし、能面を打っているという。

 そして、これからのシニア日本語教師について、中田さんはこうアドバイスする。「自信を持ってできるもの、誰にも負けないというものを身に付けるべき。日本の伝統文化ももちろん大切ですが、現代日本事情や学習者が興味を持っていることも知ることです。
 中田さんは今年からパプアニューギニアに渡航、教員養成系の大学で教壇に立っている。
(2009.5.9)

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