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りらいぶジャーナル

ベトナムで教師デビュー

学生と家族が支えに
●永野淑子さん

 インターカルト日本語学校の日本語教師養成講座を修了してすぐの2009年10月、ベトナムへ飛んだのは永野淑子さん(59)。いま経済成長著しい国で日本語教師としての第一歩を築いた。

 「ベトナムの若い人は日本への憧れを持っています。その火種のような気持ちを諦めないで持ち続けていれば、いつか実現する、と伝えてきました」
 永野さんがそういうのは彼女自身の経験があるからだ。

 日本語教師を目指すよりも4年前、「英語をもう一度勉強し直したい」という長年の火種を抱えていた永野さんはついに2度目の大学に進学した。外国語学部で18、19歳の学生たちと勉学を共にしたのだ。そこで一旦燃やした炎が、今度は日本語教師への道という新たな火種を生んだ。

 「大学では様々な福祉施設などで活動するボランティアサークルに所属していました。そこで外国人の日本語教室にも行ったのです。でも、難しい質問をされると答えられませんでした。また、高齢者福祉施設で働く外国人介護士の話をニュースで見ました。彼女たちの日常会話は十分なのですが、介護の専門用語や日本文化について教えてあげられたらなあと思ったのです」

 そこで大学卒業後、日本語教師養成講座を受講、海外で教えたいと思い、求人情報で見つけたサイゴン・ランゲージ・スクールに応募したのだ。

 飛行機に乗るまでは教師デビューという期待感でいっぱいだったのだが、ベトナムが近づくにつれ不安が増した。当の学校の日本人教師は20代後半から35歳が中心で最年長は40歳。50代の教師を採用するのは初めてだったのだ。「学校側の期待に応えられるかどうか。私の後に続く人にも迷惑がかからないようにしなくては」と身を引き締めたという。

 受け持った授業は週6日で多いときには8コマ。当初は「いい教案作り」が一大仕事になった。が、それが間違いだということを身を持って知ることになる。
 「自分ではバッチリな教案ができたと自信を持って授業に臨んでも、学生との間に気持ちの距離を感じたのです。学生と私が共鳴しなければ、いくらいい教案でも一方的で独りよがりの授業しかできない」

 それに気づくと、あるときから自然とキャッチボールができるようになった。「やった、という充実感を得られました。でも、学生に助けられたからできたことです」

 永野さんを支えていたのは学生だけではない。日本に残した家族もそうだという。
 「正直に言って、いままで家族に支えられているなんて思ったことはありませんでした。でも、何があっても応援する、という家族の声があったからこそ、1年も異国で単身、教師ができたのです」

 SkypeやE-メールといった通信手段が使えるいまだから、海外でも働けるのだと永野さんはいう。

 そして昨年8月末、最後の授業を迎えた。学生たちから思い思いのプレゼントが手渡され、思わず涙ぐんだ。
(「学生たちと感動を共有したことを忘れません」と学生からの寄せ書きを手にする永野さん)

 今年1月末、永野さんはホームヘルパー2級を取得する見込みだ。日本で働く外国人介護士のことを知ったことが永野さんの心にまた別の火種を植えつけていた。

 「これからお世話になるであろう外国人介護士にも日本語を教えたい。でも、その前に自分も介護のことを知らなくてはいけないと思ったのです。また、介護の勉強をすれば、介護福祉士にステップアップしたい人に教えることもできます。それに私もいずれ介護予備軍ですからね」

 永野さんの炎はますます燃え上がり、新しい火種を生んでいくのだ。
(2011.01.20)

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