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りらいぶジャーナル

一方の手は自分、もう一方の手は人のために

教師のネットワークが必要
●西村 昇さん

 西村昇さん(76)は日本語教師として働き、10年余が経つ。現在、ビジネスで日本に滞在している韓国人のプライベートレッスンを受け持っている。以前には日本語学校で教壇に立っていたことや国際交流協会で地域の外国人向けにボランティアで教えていたこともある。特にビジネス日本語を教授するプライベートレッスンでは西村さんの社会経験が存分に発揮されているようだ。「学校で教えるのと違って年齢は無関係。むしろ学習者は仕事上、日本語が必須だという人なので、その要求に十分応えやすい」


 西村さんは大手自動車メーカーで大型車の設計に従事していた。仕事でフィリピンやインド、パキスタンなどにも出張した経験がある。そのとき、係長以上の肩書きを持つ現地人から「日本語を教えてほしい」と頼まれることもしばしばだったという。外国人の日本語を必要とする現場を見ているだけに、そうした需要に対する感覚が冴えてくるのだろう。
 「外国人にはできるだけ正しい日本語を教えたい。そして彼らが日本語を普及してほしい。そんな意欲的な人を育てたいですね」

 だが、朝日カルチャーセンターの日本語教師養成講座を修了してから実際に教師として働くまでには相当の苦労があった。受講中は「資格を取れば何とかなるだろう」と気楽に考えていた。しかし、「日本語学校に応募しても、どこも『1、2年経験がないと採用は難しい』と一蹴された」と厳しい現実を知ることになる。「実際、応募先で模擬授業もしたのですが、『初級者には難しい言葉を使っている』『早口だ』などと指摘されました。講座を修了したとはいえ、生易しいものではないと思いましたね」と当時を振り返る。毎日、日本語教材などを扱っている凡人社書店に通い詰め、求人掲示板に目を凝らした。年齢制限がなく経験の有無を問わない求人先を見つけては片っ端から履歴書を送った。

 1年近く経って、もうやめようかと諦めかけていたころ、ようやく応募先から声がかかるようになったのだという。
 「講座を受けているときは私も含めて概ね気楽に考えていたようでした。でも実際は厳しい。日本語教師になったらどこで何をするかを十分考えなければいけないし、需要と供給をマッチさせる仕組みづくりが必要ではないか」と主張する。

 当時のクラスメイトとは卒業後もつながりを持とうと、不定期ではあるが文集「言乃葉」を発行した。文集を通じ、ときには実際に集まって情報を交換した。最近は年齢的なこともあり、なかなか継続は難しいという。だが、「教師同士のつながりは大事。国内で教えている人、海外で活躍している人、地域のボランティアなど様々な立場の教師と話せる場が必要です」と情報交換を希望する。「そういう場で、それぞれの経験や悩み、さらに日本語教師の待遇、問題点など話し合うことで、もっとシニアが活躍できる場が広がるのではないか」と考えている。

 西村さんは現役時代、仕事一本やりの人生で趣味もなかった。ただ、海外出張中に現地社員から「日本語を教えてほしい」と言われたことがこの道に狙いを定めたきっかけとなった。当時の中曽根康弘首相が打ち出した「留学生10万人計画」によって日本語学校が増加していた時期でもあった。退職後は日本語だけでなく、ハーモニカやマジックも特技とした。高齢者イベントで技を披ろうすることもあるという。
 「今までとは違った世界に飛び込みたかった。『一方の手は自分のために、もう一方の手は人のために』、これが私のシニアライフの信条です」
(2009.10.15)

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