Skip navigation.
りらいぶジャーナル

ポーラールートのアラスカ

■回想~フライトに捧げた40年 -石川真澄-

 1965年からパリ線、ロンドン線を皮切りに始まった北回り欧州線は91年まで日本から欧州各都市へ運航していました。アラスカのアンカレッジを経由して北極(ノースポール)圏上空を飛行するため、別名「ポーラールート」とも呼ばれていました。

 その後66年に日本とソビエト連邦政府との間で航空協定が締結され、翌年アエロフロート航空のツボレフTU-114型機による共同運航がスタートしました。そして70年3月からは我が社のDC-8型機でモスクワ経由の自主運航が認可されました。

 しかし、ソ連上空飛行には多額の通過料金が課せられていました。当時のソ連にとっては絶好の外貨獲得になったのです。91年のソ連邦崩壊以降は通過料金の制約が外れたため、欧州線のほとんどがシベリア経由となりました。さらに大型機で航続距離も延び、モスクワを経由せず欧州に直行するルートが確立したのです。これにともないポーラールートは廃止され、日本・欧州間のノンストップ飛行が定番となりました。

 このため経由地だったアンカレッジ国際空港は今では貨物機の発着だけになってしまいました。
 80年代のアンカレッジ国際空港は多くの旅客機が燃料補給のために寄航し、その度に大型免税店がトランジット客でにぎわっていました。当時、この空港を利用されたことのある方は立ち姿の大きなシロクマのはく製やターミナル内のうどん屋も懐かしく思い出されるかと思います。私たちクルーは日本を夜出発して太陽が昇ったばかりのアンカレッジでパイロットを含む全員が交代でした。
アラスカのコロンビア氷河

 1867年、アメリカ合衆国がわずか720万ドルで手に入れたアラスカ。私たちにとってのアンカレッジは素晴らしい自然環境の中で様々なアウトドアライフが体験できる絶好のスポットでした。春から夏があっという間に過ぎて木々が紅葉したと思ったら雪景色になり、冬の寒さは摂氏マイナス30度以下とい厳しい気候です。

 けれども、春になると色とりどりの花が咲き、雪を抱いた勇壮な山々とマッチして風景画のように美しい景色が広がります。そこら中にある湖に水陸両用の軽飛行機が気ままに飛び交い、川ではサーモンを手づかみで取り、幻想的なオーロラに魅せられ、白夜の夏は真夜中でも沈まない太陽の下、郊外のキャンプ場でバーベキューを楽しんだこともいい思い出です。

●バックナンバー
長期戦だった今はなき南回り欧州線
世代交代の狭間の中で
よど号事件から学んだ教訓
運命的な人生のレールに乗って

【いしかわますみ】海外ライフ・コンサルタント。1968年日本航空に入社後、アテンダント(スチュワ-デス)、アシスタントパーサー、パーサーを経て、90年からチーフパーサーとして後進の指導・育成に当たり、2009年退社。40年間のフライト乗務時間は地球560周分に相当。R&I会員の横顔「日航40年のキャリアでシニア支援活動も」