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りらいぶジャーナル

伝説の王都

~ ピン川に消えた王都 ウィアン・クン・カム ~

>>ランプーンを都としてモン族のハリプンチャイ王国が興ったのは西暦の8世紀中ごろとされるが、ピン川の流域にはこの王国を守るひとつの街があったといわれる。ここではモンの文字を刻んだ石造りの碑を始め陶器や土器、仏教彫刻など考古学的価値の高い幾多の発掘物が出土し、その起源は遠く8世紀にまで遡る。<<


 北部タイを流れるピン川は険しい山岳地帯にその源を発し、いくつもの急峻な谷を経て南へと流れ下る。20世紀初頭まで、北部の山岳地帯への交通手段は唯一このピン川を遡ることであり、今日では想像も及ばぬ困難と長い時間を伴った。
 ピン・バレーの中でも、チェンマイからランプーンにかけての一帯は肥沃な平野が広がっている。ランプーンを都としてモン族のハリプンチャイ王国が興ったのは西暦の8世紀中ごろとされるが、ピン川の流域にはこの王国を守るひとつの街があったといわれる。ここではモンの文字を刻んだ石造りの碑を始め陶器や土器、仏教彫刻など考古学的価値の高い幾多の発掘物が出土し、その起源は遠く8世紀にまで遡る。

 13世紀初めまでの北部タイは、このハリプンチャイ王国を除いて小国が群雄割拠する地域であった。13世紀半ば、最北部のヨーノック王国でメンラーイ王が即位するや、この若き王は統一国家を興す野心を持って南進、西暦1262年にはチェンライに都を置いてランナータイ王国の礎を築くに至る。


 1273年にはコック川上流のファーンが陥落。王はこのファーンにおいて、当時北部タイの宗教と文化の中心であったハリプンチャイ王国の商人たちと出会い、同王国の富と繁栄を知る。大いなる野心を持ったメンラーイ王はハリプンチャイ王国の攻略を画策、やがて1281年にこれを滅ぼすや当時脅威となっていたモンゴル軍の南進に備え、スコータイ王国のラムカムヘン王、パヤオ王国のガムムアン王と相互不可侵の盟約を結びランナータイ王国の平定を果たす。

 翌1288年、メンラーイ王は新たな都をこの肥沃なピン川沿いの地に築く。これがピン川河岸という絶好の戦略的位置を占めた伝説の王都ウィアン・クン・カムである。


 しかし、この都は度重なるピン川の氾濫によって長くは続かなかった。1296年、王はこの新たな都を見限り、ラムカムヘン王、ガムムアン王の助言と協力によりランナータイ王国永遠の都として城塞都市ノッパブリー・シー・ナコーン・ピン・チェンマイを建設するのである。以後チェンマイは北部タイの中心都市としてビルマの属領となった一時期や幾多の紛争と荒廃を乗り越え、19世紀後半には現チャクリー王朝のチュラロンコーン大王によりシャム王国の一部となって今日に至っている。


 チェンマイ遷都後もメンラーイ王はたびたびウィアン・クン・カムを訪れ、チェンマイ防御の戦略拠点として整備する一方、ハリプンチャイ様式の文化・伝統を尊重し、モン族の文化はここから次第にランナー文化に受け継がれ同化していくこととなる。
 やがて長い歳月の間に、ピン川はその川筋を何度も変える氾濫と洪水を繰り返し、次第に土砂と堆積物に埋もれたウィアン・クン・カムはピン川に沈んだ王都として打ち捨てられ、人々の記憶から消えてゆく。


 この時代のタイ北部の歴史は未だに未解明の点が多々あり、ウィアン・クン・カムも多くの謎が残されたままである。1984年、偶然この地にあるワット・チェンカムの敷地1.5メートルの地中から古い陶器や仏像のお守りなどが発掘され、これらがハリプンチャイ様式のものと判明するや、タイ芸術局は本格的な発掘と航空写真の撮影による探査を開始、次々に驚くべき事実が明らかになってゆく。


 上空からの調査により、地域全体で21か所に及ぶ寺院遺跡が確認され、当時のウィアン・クン・カムは長さ850メートル、幅600メートルの城壁とピン川から引いた掘割に囲まれていることが判明した。
 さらにここで出土したモン文字による石碑は、クメール文字を基に考案されたとされるタイ語の創設学説見直しを迫る大発見となった。ウィアン・クン・カムには既存のワット・チェンカムなどの寺院と合わせ計25の寺院があったと推定され、発掘調査の終わった一部の遺跡は公開も始まったが、今なお、地中に眠る幾多の遺跡はタイ芸術局による地道な発掘調査が続けられている。


 今日、ウィアン・クン・カムの遺跡巡りは観光ツアーにも組み入れられるようになったが、まだまだタイ人観光客が主流で日本人を含む外国人の訪問は少ない。チェンマイの南方およそ5キロ、市街からは15分ほどで遺跡の中心となるビジターズ・センターへ着く。ここは遺跡全体を解説した博物館となっており、ウィアン・クン・カム遺跡の全容を容易に把握することができる。近代的なディスプレーに加えて展示物も興味を引くものが多く、よくできた博物館ではあるが、タイ各地の博物館同様、惜しむらくは英文解説にもう一歩の突っ込みが欲しい。ツアーの観光客はここで専用のトロリーや花馬車に乗換えて遺跡巡りとなるわけだが、このシステムもなかなかのものである。

 ウィアン・クン・カムは、ビジターズ・センターを基点にして、1~2時間もあれば主だった遺跡を駆け足で見て回ることができる。
 まずはこの遺跡群の中心ともいえるワット・チェンカムを見てみよう。メンラーイ王によって建立され、その王宮があったとされるこの寺院は、かつてはスリランカからもたらされた仏の木が茂り、多くの人々の信仰を集めたといわれている。境内には緑の木立の中にレンガ積みの壁面が見事に保存され、長い歴史を偲ばせる。ウィアン・クン・カム遺跡が甦る元となった、ハリプンチャイ王国時代の素焼きの土器などが発見されたのもこの寺院の敷地内とのことだ。


 次に現在のピン川に近い一角にワット・チェディ・リアムでは、見事なモン様式の仏塔を見ることができる。メンラーイ王はウィアン・クン・カム遷都後もハリプンチャイ王国の文化を手厚く保護したとされ、これはチェンマイに都を移した後も様々な面でランナータイ文化に継承されている。
 この見事な四面の塔はランプーンにあるワット・チャーム・ティウィー(ワット・ククット)の仏塔を模したといわれるが、20世紀初頭、ビルマ人の手によって修復されたことからビルマ文化の影響も見られるとのことだ。青空に映えるチェディ・リアムの仏塔は実に美しく、ウィアン・クン・カムを代表する建造物として紹介されている。


 現在、遺跡群の主だった見所はワット・チェンカムとワット・チェディ・リアムの仏塔のみであるが、ウィアン・クン・カムの魅力は、いにしえの王国に思いを馳せながら変化に富んだ広大な地域をゆっくりと巡れることであろう。遠い日、氾濫によって幾度も川筋を変えたピン川、ワット・プー・ピアやプラ・タート・カオなど、そこかしこに点在するレンガ積みの遺跡、木々の間に続く小道とその脇を走る細い水路。木漏れ日の中、そんな道を行くと突然姿を現す次の遺跡。のどかな田園風景が広がったかと思うとまた濃い緑の中へ。めまぐるしく変わる風景はここを訪れる旅人を飽きさせることがない。


 ウィアン・クム・カムの遺跡はチェンマイ市街からも近く、ランプーンを含めた日帰りの小旅行には最適な立地にある。歴史好きの方々のみならず、チェンマイを訪れる方々はハリプンチャイ王国からランナータイ王国へと続くメンラーイ王の時代、さらにピン川に消えた伝説の王都のロマンを味わってみてはいかがだろう。チェンマイ国立博物館、ランプーンのワット・ハリプンチャイと同博物館、ワット・チャーム・ティウィーなどを併せると興味は尽きることがない。
 伝説の王都は今、私たちの前にその全容を現し始めた。

※本稿はバンコクにて発行されている日本語情報誌「Web」2007年5月16日号掲載の記事に現状を踏まえて加筆・修正したものです。

【写真・文】小田俊明  旅行作家。大手エンジニアリング会社に在職中、中東を中心に世界各地の大型プラント建設プロジェクトを歴任。早期退職後、2002年より執筆活動に入る。タイでは同国政府観光庁他の要請により、日本人にまだ知られていないタイ各地を巡り、その魅力を現地バンコクの情報誌等を通じて紹介。中高年層にも向く新しい切り口の紀行エッセイとして『ウィエン・ラコール・ホテルの日々』(文芸社)にまとめる。本ウェブに小田俊明のアジア通読本も連載中。

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