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りらいぶジャーナル

殉教のメコン

~ Wat Song Khon Catholic Church ~

>>小さな村をいくつか通り過ぎ走ること小一時間、突然右手、メコン側に赤味を帯びた砂色の壁が現れ、この辺鄙なラオス国境の地にはあり得ない建造物が目に飛び込んでくる。ムクダーハーン県・ワンヤイ郡・ソンコン村。東南アジア最大級のカトリック教会、ワット・ソンコン・クリスチャン・チャーチである<<


 2005年12月、東部イサーンのムクダーハーンと対岸のラオス、サワナケットの間に念願のメコン第2国際橋が開通した。大河メコンを跨ぐこの国際橋は、ムクダーハーン市街の北方で国道212号線から取付け道路が通じている。この第2国際橋に向って橋のすぐ手前を左折するとメコン川と212号線に平行して走り、タート・パノムの手前で再び212号線に合流する小さな道が続いている。

 この道は、舗装されてはいるものの、タイのどこにもあるような水牛が草を食むのどかな田園風景が続く何の変哲もない田舎道である。メコンは進行右側に流れているはずだが、視界には入ってこない。小さな村をいくつか通り過ぎ走ること小一時間、突然右手、メコン側に赤味を帯びた砂色の壁が現れ、この辺鄙なラオス国境の地にはあり得ない建造物が目に飛び込んでくる。ムクダーハーン県・ワンヤイ郡・ソンコン村。東南アジア最大級のカトリック教会、ワット・ソンコン・クリスチャン・チャーチである。
 道路脇に車を止めて正門をくぐれば、広大な敷地に息を呑む光景が広がる。それは教会というよりむしろ近未来の美術館か大ホールのような斬新なデザインの小宇宙だ。


 仏教国タイにおけるカトリックの歴史は古く、その渡来は16世紀初めのアユタヤの時代にまで遡るといわれる。
 当時、カトリックの布教を通じてタイの植民地化を計ったフランスは多くの宣教師を送り込むが、これを庇護したナーラーイ王の没後、宣教師の虐殺が相次ぎ、タイのカトリックは衰退の一途をたどる。時代を経てチャクリー王朝に入ると次第に禁教も緩和され、ラーマ3世の治世には再び布教が許されることとなる。以後、タイに入った宣教師たちは民衆に受け入れられ、様々な分野で王国の発展に寄与してきた。今日、タイにおけるカトリックの信者は30万ともいわれるが、総人口比では0.5%にも満たない少数派であり、メコン流域に多いベトナム系住民や北部の山岳民族、華僑の一部に限られているのが現状である。


 今から半世紀以上前の1940年、時の首相ビブーン・ソンクラームは「タイ国民はすべて仏教徒でなければならぬ」との愛国信条を打ち出し、全国民に対して仏教徒となることを義務付けた。そこから、このメコンに沿った平和な村で大きな悲劇が起こる。
 当時、ソンコン村はカトリック教徒の村として知られていたが、当局の弾圧は教会司祭の追放に始まり、地域でも日に日に激しさを増していった。村ではすでに神父が追放され、ここに暮らすシスター、アグネスとルシアの姉妹、さらにカトリックの教義を守り続け指導的立場にあったシポーンは、司祭に代わり村の学校で地域の布教や子どもたちへの地道な教育活動を行っていた。


 同年12月のある日、この小さな村でも警察当局は信徒の村人に対しカトリックの棄教を求め、銃を片手に家から家へと弾圧を開始する。一方、村人から強い信頼を得ていたシポーンは人々の不安を取り除くべく、自らの死をも覚悟し、家々を訪れては人々と語り、祈り、勇気を与え続けて弾圧に対する結束を呼びかけた。村の警察はこの行為に激怒、深い森の中で彼を射殺し、信徒シポーンはここソンコン村で第一の殉教徒となる。


 残されたアグネスとルシアの姉妹はこの事実を知り悲嘆にくれるも、学校での教会活動をやめず、子どもたちに教育やカトリックの教義を施し続けた。当局は銃による威嚇や暴言で信徒に改宗を求めるが、姉妹はこれにもめげず村人や子どもたちを励まし続ける。

 やがてクリスマスの当日、ソンコンの警察当局は姉妹の家を訪れて最後の改宗勧告を行うが、ふたりはこれをも拒否、殉教の覚悟を決める。驚くべきことにこの夜、姉妹は「キリスト教こそが私たちの唯一の宗教」と公言する手紙とともに、自らを殺めることとなる銃を磨くためのココナツ油まで警察署に送り届けるのである。


 翌12月26日午後、姉妹を含めた6人の信徒は讃美歌を歌いながら刑場の墓地へと進んで行った。アグネスはその最期に「私たちは殺せても教会を殺すことはできません。神を殺めることはできません。いつの日か教会はタイに戻り、今以上に栄えることでしょう。あなたがたは今私が言っていることが現実になるのをご自身の目で見ることになるでしょう。私たちは天に昇ることを心から感謝し、天上からあなたがたのことを祈りましょう」との言葉を残して5人の信徒とともに殉教、メコンに響く銃声に消えて行った。時にシポーン33歳、アグネス31歳、ルシア23歳、アガサ59歳、セシリア、ビビアナ、マリアはそれぞれ16歳、15歳、14歳という若さであった。

 この悲しい事件は長く歴史の闇に埋もれていたが、1980年代のカトリック史発掘運動で注目されることとなり、史実が明らかになるにつれ広く世に知られることとなる。
 1988年、このタイのカトリック史上最大の殉教事件の仔細は、多くの証言とともにローマ法王パウロ2世へと送られ、翌89年10月22日、多くの信徒が見守る中、7名は正式に“THE SEVEN BLESSED MARTYRS OF THAILAND”としてカトリックの聖なる殉教徒の宣言が行なわれるのである。そして今日、アグネスの予言通り、タイにおけるカトリックは憲法の記述に従って他のキリスト教各派とともに国王の保護下にあり、仏教に準じた扱いを受けるに至っている。


 この近未来的な新教会は1995年、かつての古い教会の跡地に建てられたという。
 正面に“OUR LADY OF THE MARTYRS OF THAILAND SHRINE”と記された正門をくぐり敷地に一歩足を踏み入れると、そこはまったくの別世界。あまりの風景の違いに一瞬めまいを覚えるほどだ。タイ国内でこれほど衝撃を覚えた建造物は他にない。緩やかに湾曲した左右の内壁面にはキリストとソンコン村の受難を描いた金銀のレリーフ。真正面に殉教センターとしても使われるという斬新な教会の建物。極めて現代的な明るい造形ではあるが、どこか威厳に満ちた雰囲気が漂う。さらに進めば、総ガラス張りの巨大な祈りの空間。その真正面に掲げられたキリスト降臨の像は訪れる者を圧倒する。


 建物内の裏手には花に埋もれた7人の殉教徒の棺が並べられ、側面にはマリア像がこの静謐な空間を見つめている。広大な敷地内には人の気配もなく、物音ひとつしない静寂の世界が広がる。ここはいったい何処なのだろう。時空を超えた遠いギリシャの神殿・・・・・・いやそれとも違う。カトリックの教会というにはあまりの異空間だ。たそがれ時の斜光に目にするものすべてが輝いて見える。教会のすぐ裏手には滔々と流れるメコン。対岸を覆うラオスの緑。風にそよぐ木々。そして天を衝く十字架。どこからともなく、かすかに讃美歌が流れてくるような不思議な感覚に捉われた。


 メコンに沿ったこの地域には多くのカトリック教会がある。首都バンコクとともに大司教区を担うサコーン・ナコーンの大教会、ナコーン・パノムのセント・アンナ教会、さらにムーン川に近いウボン・ラチャターニーのイマキュレート・コンセプション・オブ・ウボンは130年近い歳月を経た地区最古の教会とされ、それぞれが歴史を秘めた美しい教会だ。そのどれとも異なるこの驚愕の空間をどう表現したら良いのであろうか。
 あれから半世紀以上が過ぎ、今日も殉教の大河メコンは悠然と流れている。白雲が湧く高く広いこの空は遠くローマのバチカンへと続く大空だ。

 タイにおけるカトリックの聖地となったここムクダーハーン県のソンコン村から、国道212号線に出て北へしばらく走るとナコーン・パノム県に入る。そこには南方上座部仏教最大の聖地、タート・パノムがあるのも実に興味深い。双方の地は1時間とかからぬ距離にある。

※本稿はバンコクにて発行されている日本語情報誌「Web」2006年3月16日号掲載の記事に現状を踏まえて加筆・修正したものです。

【写真・文】小田俊明  旅行作家。大手エンジニアリング会社に在職中、中東を中心に世界各地の大型プラント建設プロジェクトを歴任。早期退職後、2002年より執筆活動に入る。タイでは同国政府観光庁他の要請により、日本人にまだ知られていないタイ各地を巡り、その魅力を現地バンコクの情報誌等を通じて紹介。中高年層にも向く新しい切り口の紀行エッセイとして『ウィエン・ラコール・ホテルの日々』(文芸社)にまとめる。本ウェブに小田俊明のアジア通読本も連載中。

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